愛用のグラスが割れてしまった
不慮の事故で、自分の過失ではなかったので
どうしようもなかったといえばなかったのだが
気に入ってるものだったので悲しい気持ちになった


グラスを買った日のことを思い出した
吉祥寺の、通りに面した外国の雑貨を売る店に
友人に付いて行って入ったのだった

そこに、たぶんインドとかタイの食器のコーナーがあり
ステンレスの用途がわからない食器らしき道具とか
妙にぺらい金属のスプーンなんかが売られていて
その棚のちょっと低い位置にそのグラスがあった

透明のガラスにうっすら緑色が入ったような、コカコーラの瓶を薄めたような
色をしていて、側面に無表情な複数の象が手を数珠つなぎにして踊っているような
図案がぐるっと一周しているというデザイン
その象が妙にシンプルな直線で記号的に描かれていて
値段もやすかったので(たしか200円くらい)いいじゃんと思ってぱっと買った


それから引っ越したりなんだりする間も、いつもそれで何か飲んでいた
コーヒーをのむカップは別にありましたから、こちらは主に冷たい
炭酸ジュースやお酒を飲むときに使った
牛乳を飲んだこともあった
ひと晩たって冷えたホットコーヒーをつめたいまま入れて飲んだこともある
何年もの間、おれが液体を飲むときに活躍してくれた

割れた破片を見ながらそういうことを思い出していたら
愛着がしくしくこみ上げてきて、思った以上に気落ちしてしまった




そういえばもうずっと昔のことだが、おみやげに買ったヒラメの絵が描かれた
湯のみを割ってしまったときも、相当悲しかった記憶がある
それは破片を接着剤で可能な限りくっつけて、いまでも部屋の片隅にある

その湯のみは小学生のときに、千葉の内房のどっかのおみやげ屋さんで売っていて
同じ形でイルカのやつとヒラメのやつがあって、イルカのほうが人気で
品物もたくさん前の方に並んでいたが、ヒラメは地味で一個だけ奥のほうに
あったので、おおと思っておれはヒラメを選んだ
それで何杯の梅こんぶ茶を飲んだことだろうか

割れてしまったときは悲しかったけど、接着して思い出を伴った置物として
部屋のなかに居場所を得た湯のみは今では悲しい気分も蒸発してしまったようで
悲壮感は無く、プレーンな存在感で目に映る

そういうことを考えてみれば、割れたグラスも捨てたりしなければ
機能以外は失っていないのだと考えることもできる
割れていないグラスが割れたグラスに変わっただけのことなのだ
必要以上に悲しむこともない



そういう気持ちでなんでもかんでも大事にしているおかげで
部屋にはものがあふれかえってしまうのだ
失えばそれなりに悲しくなるものばかりである
仮に知らぬ間に失ったとして、すぐ気づくかどうかはともかく。