アニメを見終わって、はーと思って窓の外を見たら
雑草がそよそよと風になびいているのが見えた
アニメのなかにも、草原が何度が出てきていた
緑色の色面のなかに、筆ですっと引いたような少し濃い色の緑が幾重にもあり
また暗い色でばらんのようなぎざぎざの線が描かれ
それらが揺れ動くことで草原が風になびいているのが表現されていた
実際の窓の外の景色に目を凝らすと、いろいろな種類の雑草が生えて揺れてる
目を凝らした分だけ、どれが何の種類でそれぞれどんな硬さでどう揺れているか
数から成長具合からいくらでも観察ができるわけだが、アニメの中ではそうはいかない
描かれた分、そこから読み取れる分以上の観察は出来ないし、無用だ
あるレベルから先は、描かれる対象ではなく、描画方法の方へ入っていってしまう
それはアニメを作る人の、さじ加減でもある
草が生えていることが示されていればよい、という描き方もあるし
いくつかの種類の葉が混じっている雑草地帯であることがわかる程度の描き方
ひとつひとつの葉の種類、描こうとする季節をそこに反映させる等
どのくらいの深さでそれを描くかによって、そこに込める情報を制御するだろう
そうすると、闇雲に殊更に細部を描くことよりも
登場する物体ひとつひとつに必要十分な情報量を制御して描くことが
やりかたとしては重要に思える
対象をどこまで描くか、どこから先を描かないようにするか、ということだな
逆に、実在の景色を生で見ているときのことも。
景色の中のなにに注目して、なにを見逃すかによって
どのくらい目を凝らして、どの程度ぼんやり見るかによって
同じ景色を見ても感動したりしなかったりするのだろう
解像度が無限にある、無数のことが同時進行で起こっている現実の空間から
どこを切り出してどこを誇張するか、どこを排除してどこを簡略化するかということが
作品の肝の一端であるかもしれない
午後になり、散歩がてら食べられる野草でもとるかと思って出かけた
小川の水際のあたりでクレソンが山ほどとれたので夕飯にそれを食べた
ちょっと育ちすぎているのが多かったのでもうちょっと早く気づけばよかった
去年も、もうちょっと早く気づけばよかった、と思った野草があった
山アスパラである。思い出してよかった。去年の日記を確認したら、七月初頭で
ちょっと遅かったようなこと書いてるから、六月中は注意したほうがよいだろうな
たぶん他にも沢山食べれるやつあるのだろうが
知識がないのでばらんのようにそよぐその他の雑草と見分けつかない