やはり物事の連鎖的な状況というのは気にかかる
なにかを思い出そうとしたとき、キーワードから芋づる式に
記憶が呼び覚まされることはよくある
単体でほかのなににも関せずプレーンに存在できるもんは
そうあるもんではないし、あったとしても知覚できないろう


言葉というのもおかしなもんで
あれは人が二人以上いなければ、そもそも発生しないもんで
人間と人間の関係性の話であるから、もし一人ぼっちなら言葉はない
言葉がなかったら、思考は成立するんでしょうか
直感と本能以外のものの考えというのは、言葉に依存する部分が
大部分のように思えるんですが、言語によって思考が連鎖されてる
言葉を持たない頃の人々は、どんな思考回路をもっていただろうか
想像のおよばぬところだが興味深い

自分が日本語をあやつっているということも極めて不可解に思える
どうやって赤ん坊のとき言語を習得したのかという、、、
思考の定義がなんもない赤ん坊の状態で、ものごとを定義づけるという
習慣として擦り込まれてってたのか、なぞだがみんなそうだからな
むしろ定義がなんもないから擦りこめるのだろう、

はじめて英語と日本語が接触したときの、齟齬の溶けていく過程は
いったいどんなもんだったんだろうか。想像すると妙なもんである


小学一年生のとき、近所にロバートくんというハーフの友達がいて
歳がいくつか上で、よく遊んでもらっていたんですが
おれが、別な友達がサッカーでずるをした話を彼にしたのだけど
それに対し「せこいなー」と彼が言っていて、おれはせこいという言葉を
当時知らなかったもんで、せこいってどういう意味かと尋ねると
先述の「ずるい行為」をするというのが、つまりせこいってことだよ
というような煮え切らない回答を得た記憶がある
せこい=それ(またはそれの類似状況)であるというとっかかりから
おれはせこいという言葉を生活のなかで徐々に理解していった



ちんぷんかんぷんなもんは、ほとんど存在してないのに等しいもんで
それを日常とぶつけて何者であるかを測っていくことで徐々に存在を理解できる
ためしに決めつけてみて、スタートしているところがある
名づけるというところから。
名づけることで未知のもんと関係をもちはじめることができる
ゴッドファーザーとはよくいったもんで。